第三話 喜怒哀楽の分量。「怒る」について

今回は喜怒哀楽の「泣く」に続いて、「怒る」についてお話ししたいと思います。

 

怒りという感情は否定的に取られることも多々ありますが、当然のことながら本来それはあるべき感情であり、表現の一つでもあります。ただし、「怒」に関して言えば、一つ間違えれば感情公害とも言えるほどの影響を周囲に撒き散らすということにもなり兼ねませんし、ヒトはそういった経験を少なからず重ねる中で、「怒」を押さえ込んだり、否定してしまうこともあるのです。

 

しかし、ただ「怒」を抑える、控えるという対処では「泣く」と同様に、出すべきものが適切に排出されず、心の循環が滞るように感じます。これは健康な状態とは言い難いものですが、案外そのように怒りをくすぶらせたまま放置されているヒトも多いのではないでしょうか。

 

では、どんな「怒」が本来あるべき姿なのでしょう? いわゆる正当な「怒」はあるのか? ということです。この問いの答えは私たちの記憶の中にあります。実のところ、だいたいのヒトは、まだ子供の頃に正しく怒りを使っていたり、それを目撃しているはずなのです。

 

例えば、小さな子供が砂場で遊んでいるときに、ふいに砂をかけてきた子がいたとします。このとき「止めて!」と怒って、相手の暴力を跳ね返し、自分を守るのが正当な「怒」の使い方です。やはり生きていれば怒らなければならないときもあるということですし、こういった怒りは誰かを傷つけるようなことはありません。ただシンプルに「止めてよ!」と「怒」で跳ね返すことで自分を守り、問題を食い止めるということは、恨みなどの被害者意識を引きずらないということにも繋がります。

 

少し話しは反れてしまうかもしれませんが、以前、私は自分の「怒」に救われたことがあります。

 

二十代前半くらいの頃でした。その日、友人たちと盛り上がった私は、帰宅時間が深夜になってしまいました。もう終電もなく、その時一緒にいた友人の一人が車を運転して順に皆を家に送るということになったのですが、私はこの日、駅に自転車を置いていたため「もう深夜2時だから家の前まで送るよ」という申し出を断り、わざわざ駅前の自転車置き場で車を降りたのでした。

 

大通りを走っているときは何も問題はないように思えました。ところが、車の往来もない通りで、いかにも柄の悪そうな男二人が乗る車が私のあとをつけ始めたのです。

 

自転車は小回りが利きますから、すぐに脇道へ入って車を遠ざけようとしました。一方通行が多い細い道が入り組んだ住宅街だったので、すぐに逃げられると楽観していたのです。

 

ところがその連中は、かなりその地域に明るいらしく、どの脇道へ逃げてもあっという間に正面から回り込んで来るのです。

 

静まり返った深夜、ニヤニヤと笑うガタイの大きな男二人に追い掛け回されて、今にも車の中へ引きずり込まれそうになります。このままでは連れ去られてしまう、と、本当に恐ろしくなり、必死で逃げました。そして、その執拗な追いかけっこが20分くらい続いた頃だったでしょうか。

 

とうとう狭い道に追い詰められてしまいました。もう駄目だ、と思ったその時です。二人の男のあまりのしつこさに、急に私の心を占めていた恐怖心を完全に上回る大きな怒りがメラメラと込み上げてきたのです。

 

あまりにもしつこく悪質だ!

 

強い怒りによって冷静になった私は、よーし、このくらいの声の大きさで、こう怒鳴ってやろうと自分のこれからの行動を淡々と計りました。そして思い切り怒鳴ったのです。

 

「いい加減にしろ!!!」

 

ガオーッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

驚きました。自分の怒鳴り声に。おかしなことを言うようですが、怒鳴った瞬間にライオンのような巨大な猛獣が私の横で一緒にすごい勢いで吠えた幻覚が見えました。その「怒」のエネルギーは凄まじいもので、あまりの迫力に、ここまで威嚇するつもりはなかったのにと相手に同情した程です。

 

見るとそのいかつい二人のチンピラのような男たちは、青ざめ、目を丸くして、身をすくめて固まっています。完全に怯えきった顔でした。その瞬間、まるで時が止まったようになり、今を逃してはいけない! と私の意識が跳ね起きました。

 

素早く自転車の向きを変えて、車と塀のわずか70センチくらいの隙間を通って死ぬ気で自転車を漕ぎ出しました。振り返ると我に返った男が必死でハンドルを切ってこちらに向かおうとしています。しかし、道幅が狭すぎて思うように動けません。助かった! そのまま一目散に逃げたのは言うまでもありません。

 

自宅に入ると急に身体がガタガタと震え出し、まともに立っていることもできなくなりました。やっとの思いで眠っている妹を起こし、今しがた起こったことを話すと、彼女もブルブルと大きく震えて泣き出し、「お姉ちゃんが怖い人でよかった」と涙ながらに言うのでした。…あのね、そうじゃなくて、ライオンが…。

 

これはにわかに信じ難い話だとは思いますが、私にとっての真実です。ここで一つ言い添えておくべきことは、こういった危険にさらされた時には、相手を怒鳴って叱りつけようなどとは考えずに、「助けて!」「110番!」と叫ぶのが本当だということです。(笑)決して真似をしてはいけません。そうしようという方はいらっしゃらないと思いますが。

 

ちょっと不思議で極端なエピソードになってしまいましたが、これも「怒」を使って自分を正当に守った例とも言えなくもありません。このように(?)「怒」とは出すべきときがあり、それは正当なものであるのです。

 

逆に控えるべき「怒」とは、八つ当たりの怒りであったり、いたずらに攻撃的な怒りです。自分を守るためとはいえ、「怒」で攻撃を繰り返していくことはやはりお勧めできません。

 

その場でパッと埃を払うように「怒」で相手の攻撃を跳ね返して、それで終わりです。「怒」も爽やかであることを目指すべきだと思うのです。

 

もし、仮に「怒」を内に秘め、それがじわじわと滲んできてしまうようなことがあれば、それは「恨み」という、自他共に害するさらなるネガティヴな感情へと変換された形で出現するかもしれません。

 

人の感情を伴う行動は必ずと言っていいほどエスカレートしていくものですから、「怒」はあくまで自分を守る、よくないことを跳ね除けるためのものであって、その場でパッと出してパッと終わらせることが肝心です。そこから先の対応や関わりは、もっと冷静な判断のもとに考えることが良いでしょう。

 

しかし、そうは言っても、怒りを必要な時に表現したり、または、抑えることができない場合も多々あります。そういったヒトは、まず、ご自分の「怒」がどういったタイプであるのかを自覚するところから始めると良いのではないかと思います。

 

チェックポイントは、自分が激しやすいのか、そうではなく割りと冷静なタイプであるかです。激しやすいタイプの方は、自分がそうであるということをきちんと認識することが大切です。「そんなことはとうにわかっている!」とすでにお怒りの声も聞こえてきそうですが、ここで言う認識とは、“ただ知っている、気づいている”というレベルではなく、もう一歩進んだ認識です。

 

特に激しやすい方というのは、自分の感情に対して無頓着な傾向があるという見方ができると思うのですが、例えば、自分は怒りっぽいと知っているが、そんなことはそうなってしまうのだから仕方ないじゃないかと結論づけ、怒りの感情が出てきたときには、そのままに振舞うという垂れ流しパターンがあります。

 

これを、そんなの当たり前じゃない? と思った方は注意信号です。確かにヒトには感情があり、それは自然に湧き上がってくるものでもありますが、もう一度冷静にその怒りの原因はなんであるのか、本当に相手に「怒」をぶつけるしか取るべき態度はないのか、たとえそこで正しいと判断ができたとして、その結果、何を得て、何を失うのかなどを考える余地を持つということはやはり価値あることなのです。

 

理想としては、「怒」を放ってしまう前にこのように考えることができると良いのですが、怒りの感情とはそう生易しいものではありません。ですから、怒ってしまった後でもいいので、心が落ち着いたところで一度自分の「怒」をじっくりと検証してみるといいでしょう。

 

しかしながら無理に怒りを押し込めて、態度を変えることを続けることは、心にストレスを与え、歪みを作る原因にもなりますからあまりお勧めできませんが、表現はできるだけ控え目にしたほうが無難であることは確かでしょう。そして、冷静になれたら自分の「怒」を眺め、それを検証することです。これを淡々と繰り返し、それでも怒りたいならまた怒り、自己検証を繰り返すのです。

 

このように自分の感情と思考を切り離して「怒」に注意を向けていくと、だんだんと激しい感情に呑み込まれることから自然と離れていくことができるようになります。

そして、自分の感情と向き合い始めることで、どんなに周りの人間が自分を許してくれていたのか、支えてくれているかということも見えてくるかもしれません。

 

最初は根気や勇気が必要になる場合もあるでしょう。しかし、この自分と向き合うという作業を続けていくことで、ヒトは自分の感情の支配下で振り回されるという苦しみから解放されていくのです。結局、すべては自分との戦いであるということにも気づかされるでしょう。そして、これが一度できてしまえば、ただ自分や状況を冷静に見つめるだけの非常に簡単な作業で、人生が変化していくことを体験するようになります。

 

この作業こそが、外に表現すべきではない「怒」を自然に手放し、新陳代謝するという方法にもなり得ると思います。感情を揺さぶる本当の原因がそのままに見えたなら、だいたいにおいてそれはその段階で意味を失うのです。

 

もし、あなたの環境の中にいつも「怒」を放っている人がいたら、基本的にはできるだけ近くに寄らないことです。自分以外の人間に怒りを平気で撒き散らすというタイプは、自分の感情に対して無頓着で、自分自身がどんな人間になっているのか、自分の振る舞いが周りにどんな影響を及ぼしているのかといったことには気づけていません。また中には、ある程度は気づいていても、そんなことはどうでもいいと開き直って、自分の怒りを優先する確信犯もいます。なんであれ、怒っているときには手がつけられないのです。

 

家族や職場の上司など、避けがたい「怒」の垂れ流しタイプが身近にいる場合は、極力「怒」に調子を合わせないことです。怯えることも、反発することも「怒」のパワーを増幅させる危険性があります。緊迫した空気もよくありません。

 

できる限り穏やかな笑顔でかわすのです。相手のやる気を削ぐような満面の笑みで対することができればその人はプロと言えるでしょう。しかし、笑顔を馬鹿にしていると捉えられれば、火に油を注ぐ結果となることも忘れてはなりません。

 

激しい怒りの原因には、それ相応の理由がある場合もありますが、それだけではなく、過去の不快な記憶を重ねた妄想プラスの怒りや、思い込みの激しい妄想型怒り、張り合う気持ちを載せたもの、妬み、攻撃、後悔、反発、原因のない破壊的な怒りまでさまざまあります。

 

このように怒りとは傍から見るのと、本人の中で渦巻くものとでは大きなギャップがあるという可能性も高いのです。

 

ご存知のように、ヒトの心を奥深くまで覗き込むことはできませんから、他人の「怒」の根本原因を突き止めるなどということは不可能と言えるでしょう。ですから“触らぬ神に崇りなし”なのです。

 

 アーユルヴェーダでは「怒」とは、ピッタという火の質が乱れていると捉えます。いつもイライラとしているヒトや、好戦的なヒトなどには、辛い食事、酸っぱい食事、熱過ぎる飲み物や、熱過ぎるお風呂など、火の質を乱すことを避けるように促すといいでしょう。また、弁論大会や競う運動など、戦う質のあることをするとピッタの乱れを増幅しますから控えます。

 

例えば、いつもイライラと怒ってばかりいるお父さんに、カーッと熱いお風呂に入ってもらい、グツグツと煮え立ったおでんやキムチを夕食に出し、食後に格闘技系のゲームで激しく争い、熱いコーヒーを勧めるなんてことをすれば、まさに火に油を注ぐこととなります。

 

逆に言えば、怒りん坊の方は、熱過ぎるものを避けて、食事も活動も穏やかさを心がけることで心の健康を求めることができるということです。

 

こうして「怒」の本質や特性を少しでも知って、感情生活を健全に安定させることは誰にとっても幸せに通じることではないでしょうか。